音楽と言葉とまぶたの裏の世界 

Karin's Wonderlandのブログ

楽しみ甲斐があるもの

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現代社会の動画を見るのが楽しくて次々と見ていたのですが、情報過多、というよりはYoutuberのエネルギーが強くて疲れました(笑)

(年金の話が面白かったです。)

自分の影響されやすさを感じました。

エネルギーの吸収力みたいなもの。

画面の世界に浸りすぎてしまったんだな。

そこには、そこの価値観がある。

何か自分とかけ離れたものを見たり、外のコントロールから逃れたあとのような疲れです。

私、それを前提に生きてないんや。

みたいな、ズレ、違和感、なんだろう。

ここ最近、好きなものを見聞きし、いろんな時空を旅するような心で過ごしていましたが、たまたま行き着いた現代社会の動画によって、ここで、画面の中から自分のいる現実に立ち返ります。

ああ、私の世界はここにあったね。

 

あと、養老孟司さんのインタビューをいくつか見たのは、純粋に面白かったです。

私がいるそこは散歩道で、既知の世界だと思っていた景色が、いつの間にか未知の世界になっている、塗り替えられてゆく、ような散歩道を歩いたみたいなお話(伝え方が下手だ)

この世界はいろいろ楽しみ甲斐があるかもしれない。

その時間、チャンスをいつも作りたい。

 

ある昔のバラエティ番組で、80年代と90年代の子供が描いた絵の比較が印象的でした。

番組の中の言葉を借りれば、前者は対象が観察されているのがわかり、時間の流れを感じて、ストーリーがある、後者は、絵が記号化されていて、「これってこういうものだよね」という自分の頭の中にあるもので描かれている。

「記号化」という言葉にいくらかの痛みを自分の中にも感じて。

 

よきものには、演劇であれ、音楽であれ、一枚の絵であれ、時間の流れと、奥行きがある。

時間と空間だ。

私はそう思う。

人の人格や動機などの描き方にも奥行きがあるのとないのがある。

漫画の一コマに選ぶポーズにも、時間の経過を感じさせるものと死んでいるようなのがある。

と思う。

 

前に散歩したとき、やけに木の幹や枝をただ観察した日がありました。

何かとても自分にとって意味のあるおもしろい時間を過ごした気持ちになりました。

あの時から、そういえば、植物の絵を描きたいと思いながら手をつけていない。

私も自分のイメージを引っ張り出すことに夢中になって、ここにあるものを、なぞったり解剖できるものを無視していることが多々ありますね。

 

いつも、ライブでちゃんとやらなきゃ!と思って練習してきたので、今夜は、ピアノを弾くことがどんなふうなのかを味わいながら弾けた気がします。

焦っていると、わからなかったことを、私は今体験しています。

なんでピアノが上手な人は、上手になるくらい練習ができたんだろう。

どんな喜びがそこにはあるのだろう。

私はピアノを弾いたり、絵を描いたりして完成させたいものが本当はあるけど、それをする、その行為自体の喜びを知りたい。

大切なところを、まだ本当には知らない。

私にも本当にそれを味わい、体験できるのだろうか。

 

動画で疲れたのは、人生をもっとコントロールすべきだ、というエネルギーを感じたのがあるかもね。

私はできれば、その意思を手放していたい。

でも、喜びながら過ごしたい。

頭よくなれ〜。