自分を癒すこと

この一週間はあまり元気が出ず、出勤しても気を抜けない日々を過ごしました。

昼休みの散歩も天気によっては行けないし、桜が満開を迎えたことでいつも静かな通りに、いつも誰もいないベンチには人が少しいるようになり、なんとなく居場所がないように感じました。

 

帰宅後の私はまるでアライグマのように、買ってきたもので可能なものを洗い、せかせかと座るまでにいつもより時間がかかります。

トイレ、シャワー、洗濯機と、共用のものをつかい戻ってきた後も、念のために部屋でもう一度手を洗ったり。

手順が増えて疲れるな、と、でも危機感で手も抜けず、ここまでするのが狂気じみていると感じるかは個人差があるにせよ、向かい合うべきものが見えないために私はこうなります。

強迫性障害であったとき、よくさかのぼって、そのものは前回誰がどんな手で触ったか、というのを考えていました。

そうするとものに素手で触ることができないという時期があり、また自分自身の身体も不潔に感じたこともありました。

思春期だったのだなと今なら思いますが、その頃の思考を、健全でいられる程度によみがえらせています。

台所に独自のアナログなシステムを開発したいけれど、ないスペースを眺め、部屋干しの洗濯物にぶつかっては鬱陶しさを感じます。

 

気が張って手順も増えて身体が疲れているのだな、と感じます。

昨日は疲れでぐったりとしていました。

母は普段以上に疲れていそうで心配ですが、郵送も控えようと思い、何もしてあげられないなと感じます。

一つ、ふと思いついてフリーメールで新しくアカウントを作って、亡くなった猫の写真を、家族と共有できるようにしました。

京都に来るまでに私が父のデジカメで撮りためた写真が、HDDに残っているのを見つけて。

年末に猫が亡くなったばかりで逆効果となるか、どうか…。

でも私に何かあっても両親がかわいい猫の写真を振り返れたらいいなと考えて。

二匹いた猫。

かわいい。

最近YouTubeなどで人さまの家の猫ばかり見ていたので、うちの子もかわいいじゃん、と思いました。

二匹とも、亡くなるときには会えませんでした。

聞いたときにはもういない、という不思議な感覚を、何度か経験しました。

それはいつでも私を不安にさせます。

でも自分の日々をやっていくしかない。

 

昨日、眠るときに、じゃまにならない音量で音楽をかけて眠りました。

それは平和な時間を思い出すために、安心するために有効なことのように思いました。

 

最近は、緊迫した中で、より役立つ、分析的なものを見聴きすることが多いですが、その中で主観的な私の文章はなんの役にも立たないことを感じますが、でも同時に、普段から大切にしてきたものも、忘れないようにしたいなと思います。

こんなときに何故かふと、今より多くの人と関わっていくようなことがしたい、自分で判断して人に関わっていけることがしたい、と漠然とした欲求が湧いてきます。

 

外出の自粛要請と、休みやテレワークにシフトされない仕事。

組織って何かな、組織の持っている力や決断力をもっといい意味で目の当たりにしたい、と思う日々でもあります。

 

今日は、さっき数日ぶりにピアノを弾いて歌いました。

ちょっとその力も日々残っていなくて。

私の音楽は誰かを癒すには力が及ばないけれど、少なくともその行為は、こんな日々に自分を元気づけることができるのだと感じました。

 

引き続き、気を抜かず、でも疲れを癒せる日々でありますように。