ここにあるもの

いつも私は、今自分に必要な言葉を求めています。

過去のダイアリを振り返れば、明るい言葉を周囲に投げかけているようで、やはり必死に前向きに自分を励ましていたのだな、と思いました。

今これだけできているよ、すごいね、と。

それは自分がへこたれやすいのをわかっているから、なるべく元気でいられるように。

へこたれても、前のように動けなくならないように。

また自分とおなじような人に、あなたも大丈夫だよと言わんばかりに。

できていないことがわかっているから、できたことを捉えられるように。

でも振り返ればどこか無理のあるように見えたりしておかしい。

過ぎていくとは、そういうことでしょうか。

 

気にかかることは、問題だと感じることは、その問題が自分の中にもあるからだな。

たとえば被害者と加害者がいるとして、そのどちらもが自分一人の中にいることを、ほんの些細なことから私は感じます。

人に優しくするときでさえ、純粋にそれをしているときもあるでしょうけど、自分が傷つくのが怖いからかもしれないと、いつも行き着くのは自分自身です。

 

いつも幸いにも必要な言葉には出逢います。

それに関しては引き寄せているかのように、キャッチします。

でも自分が発するのは下手です。

何を言い、何を言わないかの選び方が乱雑なよう。

自分の主張をしたいとき、相手を思いやるとき、真剣に考えた末ですら失敗することも多々あって、なんたることかと。

でも、それは時と場合に左右され続けるもので固定できないものです。

選び続けて質を上げるほかにはないのかな。

今日も、母にただお礼を言いたかったのに余計なことを言って、少し傷つけてしまったかもしれず、ああ、よくやってしまうなぁと、最近のあれこれを思います。

 

また別のところでも、自分にとって大事な人に幸せであってほしいのに、それを一瞬でも奪っているのは時には私かもしれない。

それは、自分のことも大切にできていない、ということなんだな、と思いました。

 

周りの人たちは、もっと大人なのだろうか。

大人、とは。

「私には、今なんだ」と、思い知ることが多いです。

悔しいという言葉では足りないくらいの感情が、本当はそこにはあって。

 

「学び方を学んでいる」という言葉も見つけました。

私もずっとそうです。

何度言われても学び方すらわかっていないな、と。

 

でも、少し前のダイアリにも書いたけれど、必要なものはもう私は持っていると感じるのです。

昼休みにベンチから木々をぼんやり眺めました。

お花が隠れている、と透視するように思いました。

私の中にも、そういうものがあるのだ、というふうに最近は感じるのです。

春が来る気配を、自分にもたとえるように。

 

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